日本で育った母(わたし)と、ハンガリーで育ちブラジルで暮らす娘の感覚の違いに目を向けてみました。そこには私の知らない価値観がありました。
育った国や環境が違うと、親子でも大きく違う価値観
「あなたはなに人ですか?」世界には、この質問に即答できない人がたくさんいます。国籍のこと?人種?話す言葉?親の出身国?私が今住んでいるブラジルは過去に外国から多くの移民を受け入れた国です。そのため、“ブラジル人”と一口に言っても、日系、アラブ系、イタリア系、アフリカ系などいろんなルーツを持った人がいます。さらに私たちのような外国人もたくさん暮らしているので、町中にはいろんな人種の人がいます。
そんなブラジルで小学校に通う私の娘は、7歳までハンガリーで育ちました。
私と夫は日本生まれの日本育ち。子ども時代はどっぶり日本で過ごしました。大人になって海外に出てから様々な文化に触れてきたとはいえ、日本人であるという認識は変わりません。
私と娘とでは大きな感覚の違いがあることに気がつきました。
日本では外見について話すのはタブー?
私個人の話ですが、小学生の頃「本人の努力で変えられない外見の特徴については話さないほうが良い」というような価値観を持っていました。おそらく、背が低いことを笑ったり、太っていることをからかったりしてはいけないよ、という指導があったからだと思います。
私自身、地毛と目の色が茶色く「ガイジン」とからかわれて嫌な思いをしたこともあって、その指導に納得していました。そんな背景もあり「外見の特徴について話さない方が良い」という価値観を持ったのかもしれません。
先日、小学3年生の娘の課題が「友達の特徴を説明しましょう」だったことに衝撃を受けます
・アンナはウェーブのロングのブロンド、目はブルー、背が高いです。
・ロベルトは茶色い短髪で、目の色はグレー、太っています。
など、友達の特徴を書くのです。おそらく形容詞の勉強をしているのだと思います。
私の心はざわつきました。
みんなと同じはいいこと?悪いこと?
私は娘に「自分の体の特徴について言われるの、嫌じゃない?と尋ねてみました。
その時の娘の答えに、大きな気づきをもらいます。
「私は髪が黒くて長い、眼鏡をかけている、口が小さい。背はクラスで二番目に低い。日本語と英語を話すけど、ポルトガル語はわからない。全部本当のことだからなにも嫌じゃないよ。黒髪が変だと言われたら悲しいけど、黒い髪だから黒いと言われるのは当たり前」
この娘の言葉を聞いて、私の価値観の根底にあるものに気がつきました。
それは、みんなと同じであるべき という感覚です。
価値観の背景に目を向けると理解が深まる
いろんな人種の子が集まるインターナショナルの幼稚園を経て、移民の多いブラジルで生活する娘は”肌の色や髪の色は、みんな違って当たり前”という前提でいました。もちろんそこに優劣はありません。それに対して、日本の中だけで育った私は、”みんなと同じであるべき”という前提を持っていました。だから”みんなと同じでない外見の特徴について話すことは良くないこと”と考えていたのです。
長い歴史の中で見ると、日本は島国で外国との交流も少なく、長年単一民族だったこともあり、みんなと同じであることを大切にして調和を保ってきた文化があります。それが悪いことだとは思っていません。むしろ相手を思いやって協調できるのは日本人の強みでもあります。しかし、一歩国外へ出ると、それが当たり前ではないこと、他の価値観が存在することに改めて気がつきました。
海外で育っていく娘と、日本で育ってきた母である私。これからも様々な局面で価値観の違いに気がつくと思います。同じ国で育っていたとしても、親の時代と子の時代では価値観に大きな変化があるでしょう。
そんなときはどちらが正しい、ではなく「そういう考え方もあるんだね」とフラットに受け止め合えるようになるといいなと思います。
親と異なる文化で育つ子どもをサードカルチャーキッズ(T C K)と呼ぶそうです。様々な書籍も出ているようなので、これから学んでみたいと思います!